ティアラの街角から

 

γ .  郵便局の黒い影

 

 長い時間をかけて、私は一通の手紙をしたためた。島の観光客用の店で買った透かし入りの便箋に、ちょうど二枚分の言葉。手紙を書き終えると、私は手紙を封筒に入れ、送り先を記して、封をした。
  手紙を持って、島にある唯一の郵便局へ向かった。午後の陽射しの眩しい、島が午睡む時間だから、行き交う人の姿も少ない。
  郵便局に辿り着くと、赤く塗られた古い木製の扉を開いて、中に入った。
  郵便局の中には、局員のガンマ以外に、誰の姿もなかった。屋内には電灯はついていなかったから、明るい表から部屋に入ると薄暗く感じた。冷房の効いた部屋は静かだった。窓口の向こうでは、ガンマが退屈そうに事務をしている。そのガンマは私の姿を見ると、やれやれ話相手ができたというかのように、嬉しそうに挨拶をしてきた。
  「用件は?」ガンマは私に言う。
  「手紙を出したいんです」私は言った。「日本に向けて出したいんですけど」
  「手紙ね」ガンマは言った。「きっと届くよ」
  「きっと届く?なんだか届かないことがあるような口調ですね」私は言った。
  ガンマは頷いた。「まあ、よくあることだね」
  この国の郵便事情について、当てにならないということは知っていたが、私は大げさに驚いて見せた。「それは困りますね。日本じゃ考えられないことですよ」
  「そうだろうね。分かるよ。でも、仕方ないんだ」ガンマは悲しそうに言った。
  「仕方ない?どうして?」私は食い下がる。
  「うん、まあ」ガンマは言いにくそうにくちごもった。「ここには何の問題もないんだよ。だけど、本局の方に問題が少しあるんだ」
  「本局に?どんな問題があるんです?」
  「まあ」ガンマは言った。「あのさ、誰にも言わないって約束してくれるかな?そうしたら、話してもいいんだけどさ……」
  「わかりました。誰にも言わないって約束しますよ」私は言った。「だから、教えてくださいな」
  「わかったよ」ガンマは、いかにも思わせぶりに辺りを覗ってから、話し始めた。
  「今からもう十年も前のことなんだけど」とガンマは言った。
 
  「まだ俺が二十歳を少し超えたばかりの頃だな。その頃、俺は本局で働いていたんだが、若かったしね、夜勤をすることが多かった。本局では、夜のうちに相当な数の荷物を仕分けするんだよ。そうでないと追いつかないからね。で、俺もそうして夜の郵便局でせっせと働いていたんだよ。
  でもまあ、基本的に夜は働く時間じゃない。人間は夜に働くようにはできていないんだと思う。だから、正直、みんな適当だったな。ああ、でも誤解しないで欲しいんだけど、やるべきことはちゃんとやっていたよ。ただ、必要以上の努力まではやらないことが多かったというだけのことさ。
  その中では、俺はかなり熱心に仕事をしていた方だと自負しているね。いや、ほんとに酷い奴は酷いからさ。ずっと寝てるんだ。それで、時々起きて、足元の荷物を適当に蹴飛ばす。そんな奴が結構いたよ。俺はいくらなんでもそこまでは酷くなかったね。むしろ、そういう奴の蹴飛ばした荷物を、きちんとした場所に運び直してたよ。普段の俺を見ていれば、分かるだろう?
  夜の郵便局は、結構暗いんだ。いや、ちゃんと電気は灯っているんだ。文字だって問題なく読める。だけど、なんていうか、暗いんだ。今が夜だということを、隠す事ができない。そんな暗さなんだ。そこに、様々な人々から、様々な感情を乗せた、様々な形の郵便物が集まってくる。不思議だったね。
  あれは俺が郵便局で働き始めて、一年くらいした頃だったかな。
  冬のことだった。夜が、本当に暗い時期のことだったよ。寒くてね、ただでさえ暗く感じる局内が、ますますひんやりと、暗く感じたな。そんなふうに覚えているよ。
  あの日は、俺はちょっと疲れていてね、郵便物の仕分けをしながら、疲れたもんだから、ちょっと壁に寄りかかっているうちに、ついしゃがみ込んで、うとうとと眠ってしまったんだ。壁の冷たさが、寒い部屋のなかなんだけど、妙に心地よく感じたのを覚えているよ。頬を壁に押し当てながら、同時にコートで口元まで覆って、俺はしばらく微睡んでいた。とは言っても、それほど長い時間眠っていたわけじゃない。ほんの十分か二十分というところだと思う。そんな体勢で、長い時間眠れるものではないからね。ちょっとした、ただのうたたねだったんだ。
  でも、目が醒めた時には、なんだかとても不思議な感じがした。何ていうのかな、音らしい音は聞こえないんだけど、それでも音が揺れているような感じだった。俺は顔を上げて、まだ半ば寝ぼけた頭で、辺りを見渡した。その時、不思議なことに、灯りがいつものように明るくないように感じた。明るい場所は明るいのだけれど、暗い場所は、本当に暗く感じたんだ。でもそれは、まだ目が醒めていないからかもしれないと思った。急に目が醒めると、心臓が早く打つし、だからそう感じるんだと思ったんだ。
  だが、次の瞬間に、俺は気が付いたんだ。自分の体が動かないということを。さっき辺りを見渡したと思ったのも、実際はただ、見渡したつもりに過ぎなかったんだ。確かに感じていたはずの、頬に触れる壁の冷たささえ感じなかった。
  体が全く動かない。自分の体と格闘しているような感じだった。これが金縛りというやつだろうな、と俺は思った。噂には聞いていたが、まさか自分がそんな目に会うとは、夢にも思っていなかった。幾ら慌てても、全く駄目で、指さえ動かないし、声も出ない。あれは、とても嫌な怖さだった。
  そうして俺が金縛りと戦っている最中のことだった。目の端に、何かをふと捕らえたんだ。郵便物の仕分け棚の所。何だろう、と俺はそちらに意識を遣った。
  その黒い影は、黒い煤の塊のようだった。だが、その塊からは、絶えず細くて長い腕のようなものがさっと伸びるんだ。最初、俺は影が揺れているせいでそんな風に見えるんだと思った。だが、そうじゃなかった。明らかにそれは自分の意志で動いていた。そしてその黒い煤の塊から伸びる腕は、しばらく這い回るように動いた後で、さっと棚から郵便物を抜き取り、引き寄せるんだ。そして、不思議な音を立てる。どうやら郵便物を食べているらしいんだ。そのことがわかると、俺は郵便局員として、黙っているわけにはいかなかった。郵便物は、大事な預かり物だ。俺は必死に叫ぼうとした。その努力が実ったのだろう、俺はやっとのことで声らしいものを発することが出来たよ」
 
  ここでガンマは言葉を切った。
  「それで、どうしたんですか?」私は言った。ガンマは大げさに頷いてみせた。
  「あれは、どうしても忘れられないな」ガンマは言った。「あれは、とても奇妙なものだった」
  ガンマは続けた。

 「そいつは、俺のかすれた叫び声に気付き、こちらを振り向いた。いや、多分気が付いたんだろうな。なにせ俺は自分が本当に声を出せたのかどうかも、今でも自信がないんだから。ともかく、そいつはふっと、こちらを見たんだ。
  その姿に、俺は凍りついた。
  そいつの表は、人と同じような肌をしていた。だが、奇妙なほどバランスが悪く、肩が異常なほど広かった。そして、そいつは脇から生えた細い腕で、文字通り頭を支えていた。そう、頭は体の前にあって、それが丸い盾のようだったんだ。そして、その頭は、明らかに上下が逆さまだった」

 そこまで話して、ガンマは静かに口をつぐんだ。
  私は言った。「それから、どうなったんですか?」
  「実は、恥ずかしい話なんだが、俺はその後で気を失ったから、その後どうなったのかは、分からないんだ」ガンマは言った。「だが、気が付いた時にはそいつはもういなかったし、夜も明け始めていた」
  ガンマは再び黙りこんだ。何かを考えているようだった。
  「不思議な話ですね」私は言った。
  ガンマは頷いた。そして、言った。「そうそう、手紙だったな」
  「ああ、そうです」私は慌てて言った。「これをお願いします」
  ガンマは私の手紙を受け取り、私に切手代を要求した。私が代金を渡すと、ガンマは二度、丁寧にお金を数えた。それから引出しから切手を取り出し、封筒の表に丁寧に貼った。
  「ときどき、ふと思い出すんだよ」不意にガンマが言った。私は顔を上げた。
  「いや、あの時のことをさ」ガンマは続けた。
 
  「あの時のあいつの手の動きが、今でもとても不思議な感じがするんだ。目を閉じると、浮かんでくるほどだ。とても不思議な動きだった。
  だが、今にして思うと、あの手は、何かを捜していたような気がするんだ。指先でね、何かを読み取っているような動き。そう考えるとしっくり来る。
  何を捜していたんだろう。あれから何度も考えたんだが、もちろんはっきりとしたことは分からない。分からないが、でも、今ではこんな風に考えているんだ。あれは、郵便物からあて先とか宛名とか差出人の名前とか住所とか、そうした文字を辿って、”自分に送られたものであるはず”の郵便物を捜していたんだろうと。そして、そうした手紙や小包が、あいつの食料になるんだ。
  君はどう思う?」
  「分かりません」私は答えた。
  「まあ、そうだろうな」ガンマは言った。「そりゃそうだ。まあ、ちょっとした話だよ。退屈しのぎにはなったんじゃないか?」
  「とても面白い話でした」私は言った。
  ガンマは微笑んだ。 
  「そう言ってくれて、嬉しいよ。じゃあ、この手紙は預かるよ。届くといいね」
  ガンマは手紙をすっと脇にある整理棚に滑り込ませた。
  郵便局から一歩外に出ると、むっとした風が、一斉に押し寄せてきた。私は少しためらってから、その空気の中に体を滑らせた。