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（エリ・エリ・レマ・
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Sigsand
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漂着の浜辺から
Seaside
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ダリーとホワイトロウ、それに私は、最近ベルリンの近郊で起こった途方もない爆発のことについて議論を交わしていた。我々は皆、暗黒の拡散と収縮という異様な出来事に驚嘆し、関心を持っていた。新聞でも、豊富な学説と共に、活発に意見が交わされていた。
新聞は、バウモフという名前の優れた科学者によって発明された新しい爆薬の実験が軍部によって繰り返されており、その爆薬が《ニュー･バウモフ爆薬》と通称されているという事実を掴んでいた。
我々はクラブにいたのだが、もう一人同席していた男がいて、名前をジョン・スタッフォードといった。彼は、表向きは医者という肩書きだが、裏側では諜報機関に所属していた。議論の最中、私はスタフォードから話を聞きたくて、ちらちらと彼の方に目を遣っていた。というのは、彼はバウモフと面識があったからだ。だが、私は辛うじて自分を押し止めていた。もし私が露骨にそんな質問をしようものなら、スタッフォードは（大事な資質ではあるが、沈黙の掟というものは、いささか頑固に過ぎる）しっかりと口を閉ざし、おそらくは何一つ言おうとはしないであろうことが分かっていたからだ。
私はじっくりと責めることにした。だから彼がそのことについてふと口にした時も、あえて彼からそれ以上の言葉を引き出そうとはせず、我々だけで白熱した議論を続けた。効果は覿面で、彼はそわそわとし始めた。まるで、オールを握っている手が痒いといった風だった。思うにそれは、我々が話題にしている新聞の記事が事実を酷く捻じ曲げていたからで、彼にしてみれば、何とか友人のバウモフの名誉を晴らしたかったのだろう。突然、彼は語り始めた。
「くちさがない、酷い中傷だ！」とスタッフォードの語り口は熱を帯びた。「バウモフの名前を、戦争のための発明だとか、そうしたおぞましいものと結びつけて語られるのは不愉快ですね。彼は私がこれまでに会った人物の中でも、最も情熱的な詩人であり、また、敬虔なクリスチャンでした。彼の優れた頭脳が、破壊を目的とした計画のために利用されようとしているとは、運命の皮肉としか言いようがありません。ですが、例え彼らがバウモフの定理を手にしたところで、それを使いこなす事など出来はしないでしょう。あの爆弾は、実用性に欠けているのです。それは明白であると断言できます。なぜなら、それを制御する方法がないのですから。
私が知っているのは、それだけではありません。おそらくは、そのことについてはこの世界に生きている誰よりも知っているはずです。なぜなら私はバウモフの一番の親友であったからです。彼が死んでしまって、私はかけがえのない仲間を失ってしまいました。隠し立ては止めておきましょう。私は、ベルリンで“職務に就いていた”時、命を受けて、バウモフと接触を持ったのです。政府は長い間彼に目をつけていました。彼は実験科学者であり、要するに、無視するには有能すぎたわけです。ですが、彼のことを警戒しなければならないような要素はどこにもありませんでした。彼と知り合って我々は無二の親友になったのですが、すぐに私は、彼が決して自分の能力を、いかなる形であれ、戦争に役立てるつもりなどないことを知りました。だからこそ私は彼との友情を、腹蔵なく楽しむことが出来たのです。……我々のような者には、いつでも友情を育むことが許されているわけではないのです。ええ、私があなたがたに言いたいのは、我々は非情な世界に生きているということです。ですが、それは必要なことでもあるのです。時には誰かを処刑台に送らなければならないこともあります。社会の秩序を保つためには、奇麗事ばかりでは済まされないのです！
私はバウモフのことを、熱狂的でかつ“知性的な”イエス・キリストの信奉者だったとみなしています。彼はイエスの行った奇跡が実際にあったことだと考えていました。彼はイエスの生と死について関心を持ち、その不可解な部分についての考察を行い、独創的な論文として発展させ、まとめ上げていました。私が彼と親密になった頃、彼が特に精力を注いでいたことは、《十字架の闇》の謎を解き明かすことでした。彼によると、第六時から第九時の間に起きた出来事は全て真実であり、重大な意味を持つ部分であるというのです。彼は、『物事はすべて偶発的なもので、それはその時たまたま雷雨がやってきただけに過ぎないのだ』とか、例えばそのような言葉で片付けられてしまうような無味乾燥な考え方を、世の中から一掃してしまいたいと願っていました。
バウモフには一人の論敵がいました。名前をハウチといって、無神論者の物理学教授でした。彼は講演でも論文でも常にバウモフの学説を非難していたのですが、その論拠は、イエスの生涯とその死についての逸話が、“信じ難い”からだというものでした。とりわけ彼の無神論の矢面に立ったのは、バウモフの支持する《十字架の闇》でした。ハウチによると、《十字架の闇》などというのは、実際はただ一時間か二時間ほど辺りが薄暗くなったという程度のものだったのだが、《東洋的感覚》によって感情的な色彩を加付され、『暗黒となった』と誇張されて伝えられたのだということでした。
ある夕暮れ、我々の友情が固まってから暫く経った頃でしたが、私がバウモフを訪問した時、彼はハウチ教授が幾つもの論説で彼を完膚なきまでに叩いていることに、酷く憤慨していました。矢面に立っていたのは、彼の『《闇》の重要性』という論文です。哀れなバウモフ！ハウチ教授の論説は、確かに鋭く的を得たものでした。平衡感覚を持った論法家の手に依って練り込まれた論説です。ですが、バウモフはそれ以上の存在でした。彼は天才なのです。その呼称に値する人物は数少ないが、彼はまさしくそれに相応しい存在でした。
彼は私に自説を語り、それから私に、その裏付けとなるちょっとした実験を見せたいと言いました。彼は会話の中で、大いに興味深いことを数多く語ってくれました。光が《エーテル》と名付けられた媒質を介して瞳に運ばれるという基本的な知識は私にもありましたが、彼はそこからさらに一歩踏み出して、その特性からさらに根本的な方向へと推し進め、光とは《エーテル》の毎秒毎に一定の振動を持つ波動であり、それが網膜に作用して、我々が《光》と呼ぶ知覚を生み出すのだと指摘しました。
その指摘に、私は頷きました。なるほど、誰にとっても容易に理解できる説明でした。ですが、彼はそこから一足飛びに核心に入り、説明するのは難しいが推測できることだとして、大気の暗転は（その大小は個人の力量に依存するが）常に大きな感情的なストレスを受けている人間のすぐ近くで起きると語りました。
順を追って、バウモフは私に説明してくれました。研究の結果、彼はこの奇妙な暗転（大抵は余りにも微かで、目で捉えることは難しいのですが）は、光源への妨害か一時的な遮断さもなくば《光の波動》の破壊かのいずれかによってのみ起こり得るという結論に至ったというのです。それは言い換えれば、激しい感情の振幅によって、苦しみの中にいる人のすぐ近くにあるエーテルはいくらか乱されるから、それが《光の波動》に影響を与えることによって光が妨げられて、前述したような荒漠とした暗転を生み出すということでした。
『どうかしたのか？』私は言いました。というのは、彼が口をつぐんで、私を見詰めていたからでした。まるで私が彼の述べた言葉から的確な推論を導き出すのを期待するかのようでした。『続けろよ』
『うん』と彼は言った。『分からないかな、つまり苦しみの中にいる人間の周りには微妙な暗闇があるのだが、その闇の深さは、苦痛を受けている人間によって個人差があるんだ。分かるかい？』
『ああ、そうか！』私は彼の言わんとすることを理解し、息を呑みました。『君の言いたい事が分かったよ。君は……君はつまり、こう言いたいのだろう。もし苦痛を受けている人間がごく普通の人間であれば、それはほんの僅かな翳りを生み出すだけの微かなゆらぎをエーテルにもたらすだけに過ぎないのだが、それが《計り知れない神性を持ったイエス･キリスト》による《キリストの受難》であったとしたなら、そのことによって生じるエーテルの撹乱は計り知れず、その結果《光の波動》に影響を与えたに違いない。それが《十字架の闇》の真相であると。そして、そのように奇妙で、明らかに不自然な、信じ難い《闇》についての記録は、《キリストの奇跡》を貶めるものではなく、むしろさらなる驚異であり、彼の《神性》の証拠ではないだろうかと。そうだろう？違うかい？言えよ』
バモウフは私の言葉に頷きながら、片方の手の拳をもう一方の手のひらに軽く打ち付けつつ、愉しそうに椅子に揺られていました。理解されたことが嬉しいのです。探索者が常に理解することに一途であるのと同じように。
『今から』と彼は言った。『君にちょっとしたものを見せたいと思う』
彼はベストの前ポケットからコルクで栓をした試験管を取り出して、その中身（灰白色をした、針の頭二つ分ほどの大きさの粒が一つ）をデザート皿に空けました。彼はそれを象牙製の柄のついたナイフで丁寧に砕いて粉にし、それから、多分水だと思うのですが、一滴ほどの水分を加えて少し湿らせ、小さな一片の灰白色のペーストにしました。それから彼は金の爪楊枝を取り出して、パイプに火を点けるために夕食時から点したままになっている小型のアルコールランプの火の中に翳しました。そしてその金の爪楊枝が白熱して柔らかくなるまで、そのまま炎に晒し続けました。
『ご覧あれ！』と彼は言いました。そして爪楊枝の頭をデザート皿の上の小さなペーストに当てたのです。すると突然、微かに菫色をした閃光が走りました。次の瞬間、私は透き通った闇のようなものを通してバウモフを見ていることに気付きました。ですがすぐに、彼の姿はさらに深い闇の中に溶けてしまいました。私は最初、これは閃光の網膜に対する補完性効果に違いないと思いました。しかし時が過ぎても、我々はまだ不可解な闇の中にいました。
『何てことだろう！一体どうしたっていうんだ？』私はついに言いました。
すると、闇の向こうから彼の声がしました。彼は次のように説明しました。科学的な媒体物を使い、人が危機にされされたり苦痛を感じたりする時の感情の波動によって引き起こされるエーテルの混乱を、はっきりと実感できるように、幾らか拡大してシュミレートしたのだ。だが、この波、あるいは波動は、彼が私に示すためだけに行った限定的な実験によって引き起こされたものにすぎない。それはただ《光の波動》の一時的な中断でしかなく、だからそうして座っている我々を取り巻いている闇を生み出しただけに留まったのだった、と。
『この物質は』とバウモフは言いました。『しかるべき条件下では、恐ろしい爆発物となりうるだろう』
私は彼が話をしながらパイプをふかす音を聞いていたのですが、パイプの火種が赤く燃える代わりに、揺らめいては奇妙な感じに消える、弱々しい光があるだけでした。
『おい！』と私は言いました。『この状態はいつになったら終わるんだ？』私は部屋の向こう側の大きな石油ランプがある辺りを眺めたのですが、そこにはただ暗がりの中で微かにちらちらと光っている、灯りの断片があるだけでした。ぼんやりとした光は、震え、奇妙に明滅していました。あたかもそれは、昏くゆらめく深い水の向こうにあるかのようでした。
『大丈夫だ』闇の向こうからバウモフの声がしました。『すぐに終わるさ。五分ほどで収まる。そしたら光の波は普通に流れるようになり、ランプからの光も元に戻るさ。だが、こうして待っている時間が長く感じるだろう？』
『そうだな』と私は言いました。『驚いたよ。だが、何とも気味が悪いものだな』
『ああ。でも、実はもっと凄いものを見せる準備があるんだ』と彼は言いました。『それが本番だよ。でもちょっと待ってくれ。闇がすぐに消えるから。見てみなよ！ランプの光がすっかり元に戻るから。まるで沸騰した水の底に灯りがあるみたいだろう？それがだんだんと揺らめくのをやめて、はっきりとしてゆくよ』
彼の言う通りでした。我々は光を撹乱する媒介物の効力が消えるまで、黙ってランプを見詰めていました。やがて、バウモフの姿が再び現れました。
『さあ』と彼は言いました。『これで君は、僕の作った物質を単純に燃焼させることによって生じる、その威力の一部については知ったわけだ。次に、僕は君にこれを人の体の中で燃焼させたときの効力について見せたいと思う。僕の身体を使ってだ。その時、君はおそらく、キリストの死にまつわる奇跡のうちの一つが、小さな規模ではあるが再現されるのを目にすることになるだろう』
彼はマントルピースの方へ向かい、120ミニムの小さなミニムグラスと、かの灰白色の化学物質がひと欠片入ったコルクの栓をした試験管を手にして戻ってきました。そして試験管の栓を外し、中の物質をミニムグラスの中に入れ、それから撹拌棒を使ってそれをグラスの底で砕き、水を60ミニムになるまで少づつ加えて行きました。
『では！』彼はそれを持ち上げ、飲み干しました。『三十五分ほどかかる』と彼は続けました。『炭化が進むにつれて、僕の脈拍は速くなり、呼吸も荒くなるだろう。それから再び闇がやってくるだろうが、それは微妙で、奇妙なものになる。というのは、さっきの純粋に物理的な現象に、心霊現象的なものが伴うからだ。僕がこれから苦痛によって生み出そうと考えているものを、僕は感情の波動と呼んでいるのだが、そこにいわゆる波動が介入する。おそらくそれは強大なものになるだろう。君は僕の理論の正しさを、とても興味深い形で体験することができると思う。僕はそれを先週自分でテストしてみたが（彼は包帯をした指を私に見せました）、その結果の研究発表はクラブに向けてやった。彼らはとても興味を持ってくれたよ。それで彼らは、今日から七週間後の次の聖金曜日（キリストの受難記念日）に私が大きなデモンストレーションをする際に、協力をしてくれると約束してくれたよ』
彼は煙草を吸うのを止め、続く三十五分間、このような調子のままで穏やかに語りつづけました。彼が言及したそのクラブは、バウモフ自身の主催の下に集った男性たちによる特異な団体で、その呼称を《キリストの信奉者と証明者》と言いました。その名称は、言い得て妙です。決して不敬な言い方をしたい訳ではないのですが、言わせてもらえるなら、彼らは、いや彼らの大半は、キリストの狂信者と言ってよいでしょう。そのうち皆さんも、私が間違った言葉を使っていないと納得してくれると思います。この特殊なクラブの会員の大勢の述べるところによると、彼らは独自の宗教的狂気に価値を置いており、一時的に宗教的熱狂で高揚すると、同胞たちがこぞって水の中に進み出ることもあるというのですから。
バウモフは時計を見ました。それから私に手首を差し出しました。『脈を取ってくれ』と彼は言いました。『脈が速くなりつつある。興味深いデータじゃないか』
私は頷き、懐中時計を取り出しました。私は彼の呼吸が荒くなってゆくことに気がつきました。彼の脈拍は規則正しく増え続け、一〇五回に達しました。三分後には、脈拍は一七五回にまで達し、呼吸は四一回になりました。さらに三分後、私が再び彼の脈を測ったところ、二〇三回を記録しましたが、そのリズムは一定で、乱れていませんでした。呼吸は四九回でした。彼は強靭な肺と心臓を持っているようでした。並外れた肺活量であり、呼吸困難とは無縁のようでした。三分後、彼の脈拍は二二七回で、呼吸数は五四回にまでになりました。
『とんでもない赤血球を持ってるな、バウモフ！』と私は言った。『だが、やりすぎるな』
彼は頷き、微笑みました。ですが、何も言いませんでした。さらに三分が経過し、私が最後に測った脈拍は二二三回で、心臓の左右で血液の流れが不均衡となり、不整脈を起こしていました。呼吸は六七回に上昇し、浅く苦しそうで、呼吸困難であることが明らかでした。心臓の左側から出て動脈を流れる血液はほんの僅かでほとんど機能していないため、奇妙な赤みと青白さの混ざった顔色をしていました。
『バウモフ！』私は言いました。そして中止させようとしました。ですが、彼は私をちらりと見て、妙に自信たっぷりな仕草をしました。
『大丈夫だ！』と彼は息を切らせながら、少し苛立った調子で言うのです。『僕は自分が何をしてるか完璧に理解している。僕が君に負けないくらい医学には精通していることを忘れないでくれ』
それは本当でした。私は彼が医師の資格をロンドンで取得していたのを思い出しました。加えて、彼は故国で科学の分野に於いて、五指に余る異なった学位を取得していたのです。それで私は、彼が起こり得る危険に頭が回っていないというわけではないのだと思い安心したのですが、その矢先、彼が息を切らせながら、好奇に満ちた声で叫びました。
『闇だ！始まったぞ。全て漏らさずに書き留めておいてくれ。僕のことは心配いらない。僕は平気だから！』
私は部屋の中をさっと見渡しました。彼の言う通りです。私はすぐにそのことに気付きました。異様な性質の影が現れ、部屋の中を侵食しつつありました。その影は微かに青みを帯びており、蒙昧としていましたが、まだかろうじて透光性を保っていました。
突然、バウモフは私を不安にさせる行動をとりました。彼は手を私から離して、小さな金属製の箱に伸ばしました。皮下注射器を殺菌する箱のようなものです。彼はその箱を開き、中から画鋲のような形をした奇妙なものを四つ取り出しました。それは一インチほどの長さの鋼の釘が、やはり鋼で出来た頭の部分から下方に向かって突き出たスパイクで、その中央の釘の周りにはそれよりもやや短い八分の一インチほどの釘が数本並んでいました。
彼は靴を脱ぎ棄てました。それから屈んで靴下も脱いだのですが、その時、私は彼がリンネルのインナーソックスを履いているのを見ました。
『消毒剤だよ！』彼は私を一瞥して言いました。『君が来る前に、足の準備をしておいたんだ。余計なリスクを負う必要はないからね』彼は息を切らしながら言いました。それから彼は奇妙な鋼のスパイクの一つを手にしました。
『これは皆、殺菌済みだ』彼は言いました。それから、熟考した上で、彼はそれの頭を上にして、足背動脈の二番目と三番目の分岐点の間に押し当てました。
『おい、何をするつもりなんだ！』私は半ば椅子から飛び上がりそうになりました。
『座れよ！』彼はぞっとするような声で言いました。『干渉は止めてくれ。僕はただ単に君に観察していて欲しいだけなんだ。ちゃんと<b>全て</b>、記録しろよ。君は僕に感謝すべきなんだ。心配している場合じゃない。すべて順調に進んでいるから』
彼は話しながら、二つ目の鋼製スパイクを左の足の甲に、やはり動脈を避けるように用心しながら、押し込みました。呻き声ひとつ立てませんでした。ただ、苦痛にちょっと顔をしかめただけでした。
『おお、わが友よ！』彼は私の狼狽した様子を観察しつつ、言いました。『落ち着けよ。僕は自分が何をやっているのか、完璧に理解しているんだから。こうしたことは単純に<b>必要な苦痛</b>だ。物理的な痛みを利用するのが、条件を整える一番手っ取り早い方法なんだ』彼の言葉は、苦しげな息遣いの間に挟み込まれた断続的な単語の羅列のようになり、額や唇の上の辺りに大粒の汗が透明な玉となって浮かびました。彼はベルトを素早く外して、自分の胴と椅子の背とを纏めて縛り付け、バックルで留めました。それはまるで椅子から落ちるのを予期して、防ごうとしているかのようでした。
『酷い格好だな！』と私は言いました。バウモフは肩をすくめようとしましたが、男性が突然の苦痛をこれほどまでに剥き出しにしているその様子は、私がこれまで見た中でも最も哀れを誘う姿の一つでした。
今度は、彼は両方の手のひらを、カップに入った溶液に漬した小さなスポンジで拭きました。私には彼が何をするつもりなのか分かっていました。突然、彼は苦しそうな表情のままにやりと微笑んで、指になぜ包帯をしているのか、その説明を始めました。それは、彼が以前行った実験の際に、指がアルコールランプの炎に触れてしまったせいだということでした。しかし今、彼があえぎながらも切々と語りかけてくることは、彼の心の中に浮かぶあの偉大な場面にできる限り近い状態をシュミレートしたいのだということでした。彼が指し示したことは、我々がとても神秘的な体験を待ち望んでいるのだということで、私にはそれがほとんど起こり得ざるものを待つ緊張感のように感じられました。
『止めたほうがいい、バウモフ』私は言いました。
『馬鹿な……ことを……言うな！』彼は必死にそう言いました。それは言葉というより、半ば呻きに近いものでした。というのも、彼はそう言いながら両手の手のひらに、残った二つの鋼のスパイクを深く突き刺していたのです。それから彼は思い切ったように、痛みに耐えるように震えながら、手を握り締めました。私はスパイクの針の中の一つが、中指と薬指の伸筋腱の間を通って、手の甲まで貫いたのを目にしました。血の雫が、スパイクの先から滴りました。私はバウモフの顔を見ました。彼はしっかりと私を見詰めていました。
『なんでもないさ』と彼は叫びました。『僕は意味のないことをやっているわけじゃないんだ。僕は自分が何をやっているのか理解している。見てろ……今にくるぞ。ちゃんと記録しておいてくれよ……完璧に！』
彼は黙り込みました。聞こえてくるのはただ彼の苦しそうな喘ぎ声だけ。私は付いて行くしかないと思いました。それで私は、過敏ともいえるほどの不安と、現実的で冷徹な探究心の入り混じった気持ちで、部屋を見渡しました。
『ああ』とバウムオフはしばしの沈黙の後、言いました。『何かが起こる。僕には分かる。ああ、待ってくれ……僕が……僕の大事な仮説が……実証されるまで。僕が魔の戸口を開いて見せてやる』
私は頷きました。しかし、彼が私を見ているのかは疑しいものでした。彼の視線は焦点を結ばず、虹彩が開いていました。私は再び部屋の中を見渡しました。部屋の中では、ランプからの光線が時々ふと途切れ、それが光が行ったり来たりして揺れるような効果を生み出していました。
部屋を覆う空気が、息のつまるような異様な感覚とともに、再びはっきりと暗く……重くなりました。青みがかった色合いが、さらに濃くなりました。ですが、今のところはまだ私たちが先ほど経験したほどの暗さではなく、ふとした時を除いては、ぼんやりとしたランプの光が、揺れるような強弱をつけながら部屋を照らしているだけでした。
バモウフは再び話し始めたましたが、言葉は途切れがちでした。
『こ……こうして自分を偽る事が……痛みを……正しい場所に……導くんだ。正しい知識と……感情が……最高の……結果を……生むんだ。僕の言うことが分かるか？再現するんだ……できる……限り……。全ての意識を……その死の……シーンに合わせるんだ……』
彼はしばし痛みに喘ぎました。『我々は《闇》の真実を……証明するのだ。だが……だがそこには、霊的な要素が存在するということが……条件を……同じにした結果……分かった。《現実のこと》としては、常軌を逸したシュミレーションかもしれないが。記録を頼む。書き留めておいてくれ』その時だった。突然、はっきりと、痙攣するように視界が揺れた。『おお、スタッフォード、記録を続けてくれ。何かが起こる。何か……驚異的なことが……。恐れは……ない。僕は自分が何をやっているのか……わかっているのだから』
バウモフは喘ぎ、話すのを止めました。静かな部屋の中に、彼の苦しげな息遣いだけが響いていました。私は彼を見詰め、何か言うべき言葉を探していたのですが、ふと気付きました。彼の姿は、もはやはっきりとした輪郭を持っていませんでした。我々を隔てている大気には、何か揺らめくものが介在し、それが彼を一時的に幻のように見せていたのです。部屋の中全体が、次の続く三〇秒のうちに、はっきりと分かるほどに暗くなりました。私は辺りを見渡しました。そして、不可視性の渦が一定の速さで急速に深化しており、異様な青い闇が今や部屋の中に充満しているのを知りました。ランプを見ると、その光は明るくなったり青暗くなったり、驚くべき速さで明滅していました。
『神よ！』私はバウモフが浅闇の中で、まるで自分自身に言い聞かせるかのように、呟くのを聞きました。『釘に打たれたキリスト様の苦痛が分かります！』
私は彼をのことを、計り知れないほどの不安を持って見詰めました。灼けつくような哀れみが私を襲いました。ですが、私にはもはや何もできることはありませんでした。私は揺らめく大気の向こうに、ぼんやりと歪んだ彼を見ました。それは、熱風の生み出す陽炎を通して彼を見詰めているかのようにも思えました。ただ、青黒い奇妙な波が途切れる時だけ、私の視界は保たれました。一度、はっきりと彼の顔を見ました。その顔には計り知れない苦痛が覗えましたが、どういうわけか、その苦しみは物理的なものというよりはむしろ精神的なもののように感じられました。大いなる決意と集中力を持って苦痛を制御している、鉛色をして汗に湿った彼の苦痛の表情には、どこか英雄的で高貴なものがありました。
それからまもなく、不透明さが波や飛沫となって部屋を侵して行きました。彼の極度の苦痛が生み出した波動が、ついに《光の波動》を無効化してしまったのです。最後に部屋の中をざっと見渡した時、私には、あたかも眼に見えないエーテルが沸き立ち、断末魔のような渦を描いているかのように思えました。そして不意に、ランプの炎がちかちかと激しく瞬きながら光を失いました。それから暫くの間、その場所では、光が束の間ゆらめいてはふっと消え、またゆらめいては消えということを繰り返していましたが、ついには息絶えたように、明滅する灯りだけではなく、あらゆるものが見えなくなってしまいました。私は、バウモフの苦しげな荒い息遣いだけが聞こえてくる、漆黒の夜の闇の中に投げ込まれてしまっていました。
たっぷり一分が過ぎました。ですがもし私がバウモフの呼吸を数えていなかったら、きっと五分は経ったと思ったに違いありません。それほど長く感じました。バウモフの声がしました。ですがその声はどういうわけだか、抑揚を欠いたような奇妙な調子に変わっていました。
『神よ！』暗闇の向こうから彼の声がしました。『キリスト様はどれほど苦しかっただろう！』
静寂が広がるにつれ、私は自分が漠然とした不安を感じていることを悟りました。ですがそれは余りにも曖昧で、拠り所のない感覚でした。潜在意識下でそう感じているのだと私は思いました。三分が過ぎました。その間私は彼の呼吸を数え続けていましたが、闇の向こうから私に届く彼の息遣いは、殆ど末期のようになっていました。その時、バウモフが再び話し始めました。彼の声は、相変わらず奇妙に変化したままでした。
『汝の苦悩と血の汗をもって』と彼は呟きました。二度、彼は同じ言葉を繰り返しました。彼はその異常な状態の中で、憑かれたようになって、主のの死のシーンに重ね合わせようと、全ての神経を注いでいたのです。
彼の憑かれたような姿は私を魅きつけましたが、それはある意味で異常なことでした。それで私は、できる限り自分の知覚と感情それに精神状態を分析しました。そうして得た結論は、バウモフは私に、半ば催眠状態に陥らせるような効果をもたらしているのだということでした。
それは、一つには私が通常の認知力の範囲に留まりたいと願っていたにも関わらず、突然の声音の変化によって新たに気がかりなことが増え、バウモフが大丈夫かどうかが心配になったせいでした。私の声は、底知れない澱んだ暗さの中で、特異な、とても不安定な陥穽のようになっていました。
彼は言いました。『静かにしてくれ！僕は《十字架》を運んでいるんだ』想像がつくと思いますが、聞き慣れぬ、抑揚を欠いた声で語られたそのシンプルな言葉は、ほとんど忍び難いほどの切実さを帯びており、その効果は絶大でした。大きく見開いた私の眼に、いきなり、十字架を運ぶバウモフの姿が、奇妙な闇を背景にして、はっきりと鮮やかに浮かび上がって見えました。それは絵画でよく知られているような、肩に十字架を引っ掛けるように担いでいるキリストの姿ではありませんでした。背負うように横木の下から腕を廻して十字架を掴み、石だらけの地面を引き摺っているのでした。私にはさらに、木皮がめくれあがっている、粗雑な木材の木目の文様さえ見えました。そしてその引き摺った跡の終点では雑草がひと塊りになっていましたが、それは石だらけの地面の上を引き摺られている十字架が、その石の周りを擦ったり掘ったりして、剥ぎ取ったものでした。私はこうして話しをしながら、今でもその映像を見ることができます。その鮮烈さは、筆舌に尽くし難い体験だったのです。ですがそれはまるで閃光のように一瞬で過ぎ去りました。気が付くと、暗闇の中に座って、機械的に呼吸を数えている自分がいました。
それは突然、じっと座っていた私を襲いました。……全ての驚異は、バウモフによって為されたことでした。私は《十字架の闇》の奇跡が現実に再現されつつある闇の中で座っていました。簡単に言えば、バウモフは彼自身を異常な状態に置くことによって《感情のエネルギー》を限界まで高めたわけですが、それは《十字架の苦しみ》をなぞるという方法によって行われたのです。そしてそのことによって彼が示した、全く斬新で驚異的な点は、キリストが並外れた個性と底知れない霊的な力を持っていたという、疑う余地もない事実でした。彼は、<b>キリスト</b>の驚異の世界をふたたび《リアリティ》のもとに蘇らせて、一般的に受け入れられていることが現実的なことであると証明したのです。この点において、私はほとんど手放しの賞賛を彼に送ります。
ですが、ここにおいて、私はこの実験は中止すべきだと感じました。私はバウモフに対し、こうしたことはすぐに終りにして、もう霊的な状態を重ね合わせるというようなことに挑戦するのは止めて欲しいという、奇妙なほど切迫した欲求を持ったのです。私はその時、現実的な知識を得るつもりで恐るべき《怪異》の発生に手を伸ばしつつあるのだという漠然とした思いを抱いたのですが、その奇妙な感覚は、無意識が囁きかけてくることでした。
『バウモフ！』私は言いました。『もう止そう』
だが彼は答えませんでした。聞こえてくるのは彼の喘ぐような息遣いだけで、そのまま数分間沈黙が続きました。突然、バウモフは喘ぐ声の合間に、こう言いました。『女が……見詰めている……その……息子を』彼はそれを数回、闇が完全に辺りを覆って以来彼が使っている、抑揚のない、気味の悪い声で呟いたのです。
『バウモフ！』私はまた言いました。『バウモフ！やめろって言ってるだろ！』そして私は彼の答えを待って耳を澄ましましたが、彼の呼吸がやや浅くなったように感じて安堵しました。酸素の消費量が異常だったのは明らかでしたから、心臓にかかっていた負担が落ち着きつつあるということです。
『バウモフ！』私はまた言いました。『バウモフ！止そう！』
そう私が言った時、不意に、部屋の中が少し揺らいだような気がしました。
その時私は、多分想像がつくでしょうが、一種独特の不安を漠然と感じていました。それがこの場合最も的を得た表現でしょう。ところがこの奇妙で微かな揺らぎは、全き暗闇の中に沈んでいる部屋を掻き乱したように思え、私の不安をさらに増大させました。私はその事実に怯え、恐怖しました。ですが、まだそれが確かに起こったことだと判断するには至っていませんでした。それで、それから長い時間じっと身体を固くして座っていましたが、もはや何も起こらないと判断すると、私は自分の感情をコントロールして、神経をしっかりと保つ必要があると強く思いました。私がそうしてようやく心の平穏を取り戻したまさにその時、部屋は再び揺れました。それはなんとも奇妙な、吐き気を催すような振動であり、あらゆる平穏さを奪い去るものでした。
『ああ！』と私は呟きました。それから私は勇気を出して叫びました。『バウモフ！<b>頼むから止めてくれ</b>』
そんな闇の中で大きな声で話すためにはどれほどの努力が必要であるか、あなた方には分からないでしょうね。私は話しながら、自分の声の響きに今更ながら不安にさせられました。それは空虚に、とても寒々しく部屋の中に響きました。そしてどういうわけか、部屋が信じられないほど巨大に感じました。ああ、いくら言葉を尽くして語っても、その感じをどれだけ伝えることが出来るものでしょうか。
バウモフはどんな返答も返しては寄越しませんでした。ですが私は彼のやや深くなった呼吸を聞く事ができました。とはいえ、彼の胸郭は空気を希求するかのように、苦しげな起伏を繰り返していました。奇妙な部屋の振動は収まりました。かわりに、水を打ったような静寂がやってきました。私はそうすることが自分の責任だと感じ、立ち上がって、バウモフの椅子の方に向かって足を踏み出そうとしました。しかし私は躊躇しました。どういうわけか、私はその時どんな形でもバウモフに触れる気にはなれなかったのです。その時には分かりませんでしたが、今の私にはわかります。私は無意識のうちに、バウモフに触れることを『恐れて』いたのです。
それから再び振動が始まりました。私は自分のズボンが椅子の上で滑るのを感じました。それで私は足を突き出し、カーペットの上で広げて、フロアの上を滑ってゆかないようにふんばりました。恐れていた、という言葉では私の状態を正確には言い表せていないでしょう。私は怯えていたのです。ですが突然、私は最も奇妙な形で、心を落ち着けることになりました。一つのアイデアが、パッと頭の中を照らしたように思ったのです。それが私を、事の成り行きを見守ろうと決心させた理由でした。全ては、一つの線上にある。
『エーテル、鋼の精神、そして種々様々な素質』かつてバウモフは、我々がまだ友情を深め始めたばかりの頃に、波動についての注目すべき講義の中でそのことを扱ったことがあります。彼は、初期段階では、『物質』は、その基本的な性質から、限定的な範囲の中のみで作用する局部的波動であるということを示唆し、それを定式化しました。それら初期の局部的波動は想像もつかないほどに小さい。だが一定の条件下で、波動の基調にのっとって化合すれば、多くの推測できる要素によってのみ決定された大きさと形状を持った、第二段階の波動に導くことが可能である。結合が解かれるとか、消滅するとか、エネルギーが転化するとか、そういったことが起きさえしなければだが、波動は新しい形状を維持できるだろう──その結合は、静かなエーテルの持つ不活性さのせいで、波動が活性を持つことのできる領域が閉路となって隠されているために、不安定なものなのだけれども。ところで、そのような初期段階の局部的波動こそが、物質に他ならないのだ。人も、世界も、ああ！そして、宇宙さえも。
それから彼が言った言葉は、さらに私を打ちのめしました。彼は言いました。もし十分なエネルギーをエーテルの波動から生み出すことが可能ならば、物質の波動を破壊するか、さもなくば掻き乱すことが可能だろう。だから、エーテルの巨大なエネルギーの波動を生み出すことが出来る機械が手に入るとしたならば、世界はおろか、天国や地獄（もしそんなものがあるとして、さらにそれが物質的な形を持っているとするならばだが）をも含めた宇宙そのものさえ破壊してしまえることが、約束されたことになるだろう。
私はその空想力の広大さと豊かさに当惑して、彼を見詰めたことを覚えています。そして今、彼の講義が再び脳裏に蘇えりましたが、今度は理性を保つ勇気を与えてくれました。彼によって生み出されたエーテルの撹乱が、このすぐ近隣の物質の波動をいくらかでも破壊するのに足りるだけのエネルギーを持っていることはありえないのではないか。せいぜいがこの家の周囲に小さな地震を引き起こすか、ひょっとしたら、家をちょっと揺らすだけなのではないだろうか？
しかしその時、そうした考えと平行して、もう一つの、もっと大きな閃きが頭の中に浮かびました。『ああ、そういうことか！』と私は部屋の闇に向かって大きな声で叫びました。それは、もう一つの十字架の謎を解き明かす閃きでした。エーテルの撹乱がキリストの苦しみによって引き起こされ、十字架の周囲にある物質の波動を乱した。その結果、小規模な局地的地震が生じたのだ。墓穴が開いたとか、ベールが裂けたとかいうのは、もしかしたら彼の支持者らによる喧伝なのかもしれないけれども。もちろん地震は結果であって、キリストが常々戒めていたように、それを目的としていたわけでは決してない。
『バウモフ！』私は言いました。『バウモフ、君はもう一つのことを証明してみせたんだ。バウモフ！バウモフ！答えてくれ！どうしたんだ？』
闇を裂くように、バウモフの鋭い声がしました。しかしそれは私に向けたものではありませんでした。
『神よ！』と彼は言いました。『神よ！』彼の声は真に苦悩に満ちた魂の叫びとして私に迫ってきました。苦しむ彼の姿は、催眠状態の中にあるかのようでした。それはまるで、キリストの味わった苦悩そのものを体現しようとしているかのようでした。
『バウモフ！』私は叫び、何とかして立ち上がろうとしました。私の耳に、彼の椅子のガタガタと鳴る音が、まるでその上に座っている彼が震えているかのように聞こえてきました。『バウモフ！』
強烈な振動が部屋のフロアを駆け巡りました。床木が軋み、何かが落下して砕ける音が聞こえました。バウモフの苦しむ声が痛々しくありました。ですが、私はただ立ち尽くすばかりでした。私には彼の所に行く勇気がありませんでした。その時にはもう私は気付いていました。私は彼を恐れているのだ……彼の状態か、さもなくばもっと別の私にはわからない何かを。いや、そうではない、私は彼自身を恐れているのだ。
『バウ……』私は言いかけましたが、突然彼に声をかけることさえ怖くなりました。私は動けませんでした。突然、彼は信じ難いほど苦痛に満ちた声で叫びました。
『エリ・エリ・レマ・サバク……！』だがその言葉の終りの方は、何かに取り憑かれたような悲嘆と苦痛のせいで、単に地獄のような恐怖から来る悲鳴のようになって、彼の口の中から歪んで出てきました。
その時突然、バウモフの椅子の方から、身も凍るような嘲笑が部屋の中に轟き渡りました。『エリ・エリ・レマ・サバクタニ！』
分かってもらえるでしょうか？その声は決してバウモフのものではありませんでした。それは絶望に満ちた声ではなかったのです。そう、その声は獣のような、あるいは怪物のような、そんなぞっとする響きを持つ冷笑でした。氷のような恐怖を抱いて立ち尽くす私の周りに、ひたひたと静寂が戻ってきて、私はもはやバウモフの喘ぎ声が聞こえては来ない事を知りました。部屋は完璧な静寂に包まれていました。そこはこの世界で最も忌まわしく、静かな場所でした。すぐに私は駆け出しました。けれども足を敷物の端か何かに取られ、眼から星の出る勢いで、まっ逆さまに転倒しました。それから長い時間──おそらく数時間に渡って──私は気を失ったままでした。
再び意識を取り戻した時、他の何よりも、酷い頭痛に悩まされました。しかし《闇》は消滅していました。私は寝返りを打って身体を横にしましたが、バウモフの姿を眼にすると、頭の痛みさえ吹き飛んでしまいました。彼は私の方に向かって項垂れていました。彼の目は大きく見開かれ、光を失っていました。彼の顔は大きく膨れ上がっていました。その表情には、どういう訳か、どこか獣めいたものが窺えました。彼は死んでいました。彼と椅子の背を結び付けているベルトだけが、彼が私の方に向かって崩れ落ちるのを防いでいました。彼の口の端からは、舌がだらりと垂れ下がっていました。私は彼の眼差しが忘れられないのです。彼は、人と言うよりは獣人のような、流し目をこちらに送っていたのです。
私はじりじりと彼から遠ざかり、フロアを横切って行きました。反対側のドアに辿り着き、扉が我々を隔ててしまうまで、私は決して彼から目を離しませんでした。もちろん、私はすぐに我に返り、彼の元に取って返しました。ですが、私に出来る事など何もありませんでした。
バウモフは心不全で死んだのです。もちろんそれは明白です！私は、『彼は常軌を逸した自己催眠の結果、無防備な状態に陥り、キリストを真似た虚空の怪物に『取り付かれた』のだ』などと、まともな検死官に対して示唆するような愚を犯すべきではないのでしょう。私は常識人であるには余りにも自分の考察を尊重しすぎています。だからそんな考えを真剣に提唱してしまうのでしょう。ああ、私は自虐的な言い方をしているのかもしれません。だが、自分の考えていることを認める勇気がなく、自分自身にさえ偽る時、全ての世界や自分自身に対して嘲ってみせる以外にできることなどありはしないのではないでしょうか。バウモフは死んだ。疑いもなく、心不全によって命を失った。その点については、幾らでも自分に思い込ませることができます。ただ一つ、ずっと向こうの壁にしっかりと固定されていた張り出し棚から床に落下して、今では小さなガラスの破片となってしまったもの、あれはかつては美しいベネチアングラスの形をしていたのです。部屋が揺れた時に私が耳にした、何かが落下する音を覚えているでしょう。部屋は、確かに揺れた？ああ、私は考えるのを止めるべきなのでしょう。考えても、どこにも行き着かないのだから。
新聞が書き立てていた爆薬。そうです、あれはバウモフのものです。明白だと思いませんか？爆発の後、ベルリンを闇が覆ったのです。それを避けるすべはありません。ですが、政府が知っているのは、バウモフの定理が知られている限り最も短時間で大量のガスを発生させることができるということだけです。それは、つまるところ、理想的な爆発誘発物質ということになります。そういうわけです。ですが、私が既に述べたような体験が明らかにしたように、その爆薬は戦場ではどちらの陣営にもあまねくその威力を発揮することになると私は思います。それにもしかしたら、それでも甘すぎる考えなのかもしれないとさえ思います。物質の組成を破壊することが可能であるというバウモフの理論が、真実にいくらかでも近いものとするならば、それは疑いもなく甘すぎる考えに違いないのです。
私は時々、最後に起こったあの恐ろしい出来事について、もっと常識的な解釈があるのではないかと考えます。バウモフは、彼自身が行っていた実験の結果動脈圧が過大となり、脳の血管が破裂したのかもしれません。私が耳にした声や嘲笑、それに身の毛もよだつような表情や流し目、そうしたものは錯乱によって発作的に出てきた自然な《斜格性》にすぎないのかもしれません。人には、普段の性格とは打って変わった全く逆の一面を覗かせることがよくありますが、それは実はその人の基底状態を補完しているものです。そしてもちろん、気の毒なバウモフの普段の宗教に対する姿勢は、キリストに対して敬虔で忠実なものでありました。
時々、この一筋の解釈にすがるために、私はたびたび精神に異常をきたして苦しんでいる人の声を観察するのですが、彼らの声は絶えず驚くほどの変化を見せ、そしてしばしば、とても攻撃的で冷酷な調子を持ちます。そのことから、私はこの解釈を一連の出来事に対する真実だと思い込もうとしています。ですが、私は決してあの部屋を忘れることなど出来はしないでしょう。ええ、決して』
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―長編 ―
<ボーダーランド三部作>
･ The Boats of the "Glen Carrig"
1/2/3/
･異次元を覗く家
1/2/3/
･The Ghost Pirates
1/2/3/
･ナイトランド
1/2/3/4/5/6
―連作短編集―
･幽霊狩人カーナッキ
1/2/
･Captain Gault
―短編集―
･Men of the Deep Waters
･The Luck of the Strong
・Poems and The Dream of X
･海ふかく
･Out of the Storm
・The Haunted Pampero
・Terrors of the Sea
・The Collected Fiction of William Hope
Hodgson
・The Wandering Soul
･夜の声（日本独自編集）
―詩集―
・The Calling of the Sea
・The Voice of the Ocean
・The Lost Poetry
―短編作品―
―既訳短編―
・夜の声
・失われた子供たちの谷
・陽動作戦
・石の船
・静寂の海から
・難破船
・熱帯の恐怖
・海馬
・水槽の恐怖
・海藻の中に潜むもの
・帰り船≪シャムラーケン号≫
・ランシング号の乗組員
・漂流船の謎
・グレイケン号の発見
・カビの船
・ウドの島
・岬の冒険
・暁に聞こえる呼び声
・ミドル島に棲むもの
・死の女神
・船橋にて
・ホーンテッド・”パンペロ”
・嵐より
・裂かれた夜
・わたしの家は、
祈り人の家と呼ばれるべきである
1965年：現代の戦争
―未訳短編―
・The Albatross
・A Timely Escape
・The Heathern's Revenge
・The Captain of the Onion Boat
・Bullion
・The Phantom Ship
***
・R.M.S Empress of Australia
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